「投げ銭」って?

「投げ銭」って?

「どこかの街で路上パフォーマンスしている人にお金を置いてくやつでしょ?」「義務?強制?寄付?」「いくら払えばいいの?」「なんだか判らないから、目を付けられる前に早くおいとましましょ!」
僕の運営するシェアハウス、キャンプ場、どちらも投げ銭を採用してる。それって何?なんで?

でも日本にはあまりその文化がない、若しくはそれ程多くない、気がする。最近の海外、特に欧米は知らないけど、僕が子供、学生の頃に行ったところでは大道芸人がよくやってたなぁ。当時の僕はあまり投げ銭しなかったなぁ。少し卑屈になって、帽子を持つ人が近付くと逃げる様に立ち去ってたなぁ。あそこで多少、その当時の自分の無理のない、納得の範囲で払えていたら、もっと楽しめていたのかもしれないなぁと思い出す。勿論、出せていた時の嬉しい誇らしい気持ち、今も心に残ってる。

んで今、僕のやる事、シェアハウスやキャンプ場ではその方法を実践してる。僕のところの場合、パフォーマンスと違って、大体はカタチあるものだから値段は付けやすい。でもキャンプ場ではその環境を含めたモノを評価=値付けする事になる。僕としては価格=評価としてひとつひとつに値段付けるよりも「気持ち」が欲しい。実はこの習慣、最近の旅先で自分がサービスを受ける時に「投げ銭なの」言われて「へぇ~」と思った事がきっかけ。その具体的なサービスやモノだけを考えて値段を付けるのか、その環境や雰囲気を考慮して、自分がそこで楽しんだ事実を金額に換算してみて自分で決める。相手に「いくら」と提示されるとその価格が高いと思う人には次回の敬遠や仕方なく払って貰う事になるけど、まずはその面白そうだという体験をして、大体の原価や相場が判る人には納得いく額を置いていってもらえればいいと思ってる。勿論、それを判った上で、評価が悪ければその額は少なくても仕方ない。でも相場が判らない、若しくはそうなると余計に払い過ぎる人もありそうだから、僕の場合目安の価格表は置いてる。それを元に、「ではこれ位がいいかな」とか、「この時間お陰様で楽しかったから」とか、「ここまでの苦労やこれからの発展に期待して」とか「自分の今後のチャンスを拡げる、繋がり深くする為に」とかで自分の懐から出す。誰も見ていない中だから、出す寸前まではちょっとケチってこれ位、と考えていたけど、いざ袋に入れる時には少しカッコつけて、というか自分として評価したままのそれ位を入れる。でもその気持ちよさはカッコつけた人にしかわからない。胸張って次また来ようという気にもなる。戴く側も自分の予想以上に入れていただくと、嬉しいもの。名前や顔を覚えちゃう。いや、うちは全然ハードル高くないから大丈夫。この仕組みがカッコイイように思えたんでそうしてます。例えて言うなら、神社でお賽銭箱に入れる時、いらない小銭入れるか、100円入れるか。はたまた500円や1000円を入れるかみたいなもの。お願い事?感謝の意?自分でいいと思う金額をちゃんと入れると気持ちいいじゃん!
だって、あれとあれを使ったからいくら、という管理、なんだか面倒というか無駄、というか僕一人でそんな事やってられんもんね。
シェアハウスでの投げ銭って何?家賃なんかは一応決まってる。暮らしていれば共有物以外のモノ、例えば飲食物イチイチこれいい?とかいくら?とかってせずに、これ位でいいだろうって価値をはかって自分で所定のところにチャリンとしてもらう。これも目安は書いてる。それがあれば書いてないモノも、大体これ位だろうって判ると思う。我が家として暮らしてもらいたいけど、ホントの親ではないので流石に「全て面倒見る!」とは言えないのよ。

一応言っておくと、キャンプ場の場合1度目の訪問では大体どんな感じか判り、ここがこうなればいいのになぁ、じゃぁ次に来たらこんな事で貢献、手伝ってみるかとイメージする。その2度目では天気もいいから早めに到着して、例えばタイヤの轍や土地の凸凹をここにあるスコップやらで平らにする。大分頑張ったと自分で評価できるなら、その分を投げ銭と相殺していい。だってそれ、応援隊と同じだもん。応援隊正メンバーには僕のところ、自由に使って欲しい。メンバーとかに入るのは面倒、それ程は来られないと思うなら、1日限りの応援として改善できるところを改善する応援をして欲しいのよ。それが僕の考える「気持ち」っていうやつ。勿論それは義務ではなく、ひとつの経験として楽しんで。

でもね、「僕はただ焚き火を楽しんだり、オープンな環境でゆっくりしたいからそこまでは…」という通常のお客さん、その名前と額だけは実は見てます(経理の為にメモして残してます!)その際はちゃんと忘れずにヨロシクね!